こりんご…

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じいさんが
教えてくれた
「愛」と「哀」…


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つい先日、NHK-FMにて『今日は一日、家族三昧』ってな番組をヤっていて。
ちょうど、ボクが休憩時間の午後六時ごろ。
「家族で、しみじみ、アニメソングコーナー(仮)」みたいなコトをヤってまして。


そりゃ、まぁ、家族で楽しめるアニソンなんぞ、程度が知れてるので。
しょこたんのナントカアカデミーみたく、ゼイタクを突き付けるつもりは無かったですが。(笑)
……それでも、一つだけ。
……どうしても、気になった曲が、一つ。


『じいさんの手紙』。(みかん絵日記。)
夕焼け眺めつつ、フッと、かつての自分を思い出して、しみじみ耽る、回想譚。


概説。
普段は、お気楽極楽、ハーモニカと駄弁と日記を愛する、ナイショのバイリンキャット。
主人公「みかん」なのですが。
人語を理解し、人間とコミュニケーションを取るスキルを身に付けた由縁については、謎。
……そう云う意味では。
……種族の限界を、底意地と努力と勤勉で凌駕した『ポケモン』のニャースに比べれば。
……「みかん」の半生は、それほど、苛烈では無いワケですが。(笑)


この「みかん」。
トムと出会う以前は、別の名前で呼ばれていて。
割りと天涯孤独で、893で、粗野煩雑で、バイオレンスな人生を送ってました。
荒んでました、腐ってました、曲がってました。
そんな「みかん」に旧名を与え、その893な根性を慈愛を以って矯正したのが。
件の歌に綴られた『じいさん』。


そりゃ、『じいさん』と云うからには、相応の年齢でして。
「みかん」が慈愛の意味を悟り、更生が侭なったのを見届ける如く、あの世へ旅立ち。
せっかく愛に目覚めた矢先に、最愛の心の師を喪失して、絶望に沈み、路頭に迷い。
その末に、現在の主人公のトムと出会い、あの愉快で爛漫な性格を身に付けるワケなのですが。


「みかん」の愉快で爛漫な性格の端々に見え隠れする、893っぽい任侠な孤独。
笑顔の奥底に秘められた「みかん」の孤独と喪失を知ったトム、ですが。
そんなトムに対して「みかん」は、シレッと言い放つワケで。


「今の自分は幸福だと『じいさん』に誇れる。
……ただ、この今の幸福も、いずれ消える
その覚悟なんか、到底、できたモンじゃない。」


そして、トムに、今一度、告げるワケですよ。真顔で。


「この幸福は、いずれ、終わる。だからこそ大切にしなきゃならない。」……と。


その後ろで、淡々と流れているのが。
件の『じいさんの手紙』。


「今のボクは家族に恵まれて幸福だよ。」を主旨として、説明してましたけど。
「この幸福を実感できるのは、じいさんとの日々があったからだよ」みたいな美談で。
……否、全然、違う。
『今の幸福が終わる』現実への恐怖と忸怩を切なく歌った、哀歌なんだよ。この歌は。
かつて、じいさんを喪失した愛別離苦への苦悶と邂逅なんだよ、この歌は。
幸福だからこそ何倍もの不幸が跳ね返る、その摂理に対する悲観と絶望なんだよ、この歌は。
……その上で。
……それでも、今の幸福を大切にしたいと一縷の感謝を再誓する、宣誓の鎮魂歌なんだよ。


…………、とか。


そりゃ、歌なんてのは、一人一想、聴くヒトそれぞれに思い入れがあります。
上記の力説は、ボクの一人一想であり、別のヒトは別のニュアンスで聴くでしょう。
素直に、実直に、単純に、率直に。
「じいさん、ありがとう。」の純真な感謝の歌だと感じるヒトもいるでしょう。
……上記の「みかん」の壮絶な過去と悲哀を鑑みて、なお。
……それだけの甚大な喪失を抱いたからこそ、真愛に目覚めて無垢な感謝を告げられたのだ、と。


そして、「みかん」の二律背反は。
幸福であればあるほど、喪失の悲劇もまた大きくなる事への、忸怩と覚悟は。
最愛の息子、「こりんご」へと受け継がれるワケで。
……家族愛をテーマにして、『みかん絵日記』を通して、講じるのであれば。
……幸福の最高潮だからこそ、この幸福の喪失の絶望を不安視せずには、いられない。
……いつか、この幸福は、耐え難い不幸となって、「こりんご」へと寄せて返す波となり。
……その耐え難い不幸があって、初めて、「こりんご」も幸福の真意を知るコトになる。
……子として親を労る『じいさんの手紙』よりも。
……親として子を慮る『愛がくるくる回る日』の方が。
……圧倒的に聴き手に刺さる、と、ボクは、そう感じたのですけれど。


表面的に、切ない旋律。
単純に、分かりやすい叙情詩的な歌詞。
……それだけで、一瞬の刹那的な共感に、涙腺を刺激されて。
……それで、何が伝わるモノか、と。


そんな安物だと思われてるのか、アニメソングは、……と。


時として、人間一人の人生(人生観)を変えるほどの、パワーの由縁を。
まったく実感していないからこそ、の、多数決的な一時的共感。


希薄。
ええ、希薄の一語ですね。
鼓膜と前頭葉だけの、分かり易い「家族愛のレトリック」に酔ってるだけです。


家族を介した、禍福の天秤。
その真意を穿ち、それでも、不幸を肯定するからこそ、実感できる幸福。
……、否。
……不幸を肯定する覚悟に対する、言い知れぬ不安と恐怖。
……最愛の家族が死して、その哀しみを背負って生きる覚悟。
……自分が死して、その哀しみを最愛の家族に架す覚悟。


「愛」は、深ければ、深いほど。
「哀」も、同等同理、深くなる。


そこまで、語って欲しかったね。
「家族愛って良いですねー♪」じゃなくて、さ。


家族像ってのは、いつか必ず崩壊する、仮初の幸福で。
(親族身内の逝去に限らず、虐待とか、離婚とか、加害犯罪とか、経済苦とか、様々な形で。)
だからこそ、崩壊した後の「哀」にこそ「愛」を見出す、心の繋がり。
……それが、この作品の本旨であり。
……その最たる山場に流れるのが『じいさんの手紙』なんだよ。


たった一曲でさえ、これほど『深い』んですよ、アニメソングってのは。


まぁ『家族三昧』に限らず「三昧」シリーズに、一曲ごとの『深み』を求めるのも酷なのですが。
そして。
増して「アニソンアカデミー」になんぞ、もはや、何の期待もできないワケですが。
(タイトルバリュー、アーティストバリュー、ブランドバリュー、などしか考えていない。)


聴き手の心が、もっと、芯からアニメソングに接すれば。
今みたいに、バリューだけ持て囃されて心に届かぬ消費量産音楽では無く。
人の心に激動を与えて、人生を永劫、支え続ける宗教的音楽になると思うのですけれど。


どうなんだろう。