ばるせろな…

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リオへ向け
聖火(バトン)を繋ぐ
大舞台


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そんなワケで、猫も杓子も、ロンドン五輪
アニメオタクのボクとしては。
「ィャ、だから。深夜アニメの予定を狂わせるの、ヤめてよね」って話。(笑)


まぁ、流行りモノにケチを付けるのは、ウチの風物詩と云うか。
要するに。
逆説を吠えて、ヒトの興味の裾を引きたいだけの「かまってちゃん」なので。(笑)
いつも通り、特売の広告みたいに、テキトーに読み捨てて頂ければ結構なのですが。


世界水準の高みを目指す人々の高き、志。
その崇高な努力に対する、ある政治家が吠えたシビアな至言の話。
個人的には「せいぜい頑張って下さい」に匹敵する至言だと思う。(笑)
……アレって誰の発言でしたっけ、故・福田元総理?


さて。
テレビやら新聞やら雑誌やら、諸マスメディアでは。
安直に『感動』って言葉のバーゲンセールの投売りが展開されているワケですが。


実際、スポーツに、『感動』はあるのか?……、と。
結論から云うと、『感動』は、存在します。
ただし。
諸メディアを発信している人々が本当に『感動』したのか否か、は、別問題。
見るヒト個人によって『感動』のベクトルや温度は、実に、様々なのです。
それを一概に、万民総意と言わんばかりに統一報道する、諸マスメディアの、弊害。


…、で。
実際、テレビや雑誌や新聞が騒ぐ所の「感動」ってのは、何なのか。
人々の心には何も届かぬ、「(いつわりの)感動」の実態とは。


『感動』ってのは、十年も二十年も、永く、記憶や心に刻まれる、残るモノです。
ヒトによっては、世代によっては。
一昨日の晩飯よりも、東京オリンピックの事を、未だに鮮烈に記憶しているヒトも多いでしょう。
否、逆に。
オリンピックどーこー、と、四年ごとに加熱が賢しい時勢にも関わらず。
ネタになる時だけ騒がれても、以後、さっさと忘れられるコトも、多いのです。


さて、諸姉諸兄。
テレビなどでは、相変わらず「今回のオリンピックでは、メダルは何個……」とか。
過去のオリンピックを介してメディアが犯した過ちを、また、繰り返しているワケですが。
(メダルの数の予想ばっかり報じて、選手の精神やポリシーを無視して、気概を削ぐ。)
(「メダル取らないと意味が無い」と、過度の期待を押し付けて、選手に過負荷を掛ける。)


「まず、オリンピックに出場したコトが素晴らしい」、……と。
どうして、そこを無視して「メダル!メダル!!」と騒ぐのか、……と。


まぁ、それは置いといて。
メダルを獲るってのは、やはり「感動」を象徴する代名詞なのですが。
なのですが。


四年前。
どこでオリンピックが開催されたか、覚えてますか?
…、で。
日本は、何個のメダルを獲得できたか、御存知ですか?


八年前。
どこでオリンピックが開催されたか、覚えてますか?
…、で。
日本は、何個のメダルを獲得できたか、御存知ですか?


十二年前。
どこでオリンピックが開催されたか、覚えてますか?
…、で。
日本は、何個のメダルを獲得できたか、御存知ですか?


…………、ね?


「メダルを何個、獲った」とか、って、諸マスコミが「感動」の看板を立てて騒いでいる話は。
たかが数年で忘れられてしまう、程度の、与太話なんですよ。


無論、競技ごとに『感動』したヒトは、一個人の記憶レベルで。
その瞬間の、実況アナウンサーの解説まで、しっかりと覚えているヒトもいるでしょう。
あるいは。
「あー。どの種目で誰々が金メダル獲ったね」って程度でも、覚えているコトもありましょう。
……例えば、ボクの場合。
……1992年のバルセロナ五輪、女子水泳200m平泳ぎ、岩崎恭子選手の金メダル。
……みたいな感じの「個人的には歴史的名シーン」ってのが、個々それぞれにあるでしょう。


…、で、今日の本旨。
世界水準を目指して頑張る、高い志に対して、政治家が告げた至言。
原典は、スポーツとは無関係ですが。
これは、オリンピックを巡る「民意と政治の温度差の代弁」でもあると思います。
国家事業として、無駄な金を大量にバラ撒いて投じるのでは、無く。
必要なサポートを、選手一人一人の意を汲んで、的確にサポートすべし、と。


至言。
「どうして一位なんでしょうか?……二位じゃダメなんですか?」


まぁ、一位でも二位でも、金でも銀でも、メダルはメダル。
云いたいコトは、金銀銅のメダルがどーこーって話では、無く。


クーベルタンが世界で最初に主張した、オリンピックの大義を無視してまで。
三者が、貪欲に圧力を掛けてまでメダルを求める愚は、どうにかなりませんか、と。
どうせ、数年で忘れられる程度の商業主義が、オリンピック報道の目的なのに。


でも。
今は小学生の子供たちが、いずれ30才になり、結婚して子供を産んでも。
今は小学生の子供たちが、いずれ60才を超えて、孫を猫ッ可愛がりしても。
それでも、子供たちの記憶に残る『感動』ってのも。
絶対、あるんですけどね。
それこそが、クーベルタンが世界で最初に主張した、オリンピックの大義


イジメを始めとする、子供たちの情操の機として、オリンピックを活かすなら。
諸マスメディアが果たすべき役割は、五輪に参加する選手と同じだけ、大きい。
当然。
五輪に参加する選手と同等の努力と艱難辛苦を、報道する人々も要するケドね。
努力も艱難辛苦もしない連中が、その場のノリだけで共感しようとするから。
テレビや雑誌や新聞が騒ぐ「感動」は、たった数年で忘れられる、安っぽいモノに成り下がる。