たてかわだんし…

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俺だって
死んでしまえば
ただの骨


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俺の訃報を聞いて「談志が死んだって?ザマァ見ろ!」とか笑う奴も居るだろうさ。
その気も無いのに「御冥福を……」なんて泣いてくれる奴もいるかも知れねぇけど。
どうせ俺は、その時には棺桶の中で骨になってるんだから、どうでも良いんだよ。


それよりも、だ。
死んだ時だけ「お悔やみ」ムードで、三日後には俺の事なんかスッパリ忘れてよ。
政治だの事件だの、結婚だの離婚だの、そう云う話ばっかりになるんだろ、世間は。
だったら静かに死なせてくれよ、今際の際にまで世間様に迷惑を騒がせるつもりは無ェんだから。
……どうせ死ぬんだよ人間は。遅かれ早かれ。
……それを、いちいち他人の商売の出汁にされて溜まるかって話だ。


と。
こう、毒吐いたのが、凡そ、十年ほど前のコトだそうで。


ええ、言わずと知れた、昭和の落語界を引っ掻き回した風雲児。
数日前に逝去した、初代、立川談志師匠の、本人の十年前の談話の要約。


逆に云えば。
十年前から、落語家の視野で、世の中の人々の風刺を、ちゃんと見抜いていたワケで。
談志師匠の談話の通りの反応を、世の中は、辿っていたりしまス。


ネットのそこかしこでは、故人を貶める罵詈雑言と、訃報を悼む追悼の声の坩堝。
ネットの普及が無かったとしても、井戸端や飯屋では、こうした反響が起こった事でしょう。


一方で。
テレビの中では、取って付けた様な美談のフリをした、視聴率稼ぎ。
「そんな目的で、俺の名前を使うな」と嫌気を表した、談志師匠の遺志を無視して。


なんつーか。
初代、立川談志の生き様どーこーなんて高説を垂れる気は、無いですが。
テレビってのは、つくづく。
『文化』に対して、失礼の極みに徹する、産業大前提のメディアだよなぁ、と。


談志師匠が「やめてくれ」って遺志を表したにも、関わらず。
その意を無視して、視聴率のために、『立川談志』の名前を宣伝灯に濫用する、無神経。
つまり。
立川談志』に対して、畏怖尊敬の念は、まったく、無いんですよね。メディアは。
視聴率とか、カネとか、そう云うコトしか考えてないんですよね。メディアは。


だから。
本人が「やめてくれ」って言った事を、平然と、無神経に、やってるんですよね。
マスメディアは。
多数決市場主義の、大衆暴力は。


ィャ、まぁ。
日本は資本主義大国なので、結局は、金銭第一主義が先に立つワケで。
落語家一個人のワガママなんざ、無視されても然るべき文化的な下地があるのですけれど。


それも、踏まえて。
初代、立川談志師匠の死が公表されるに至る、前一ヶ月の間に。
テレビは、メディアは。
どれだけ、落語と云う文化に対して、薫陶と敬意を払ったかなぁ、と。


AKBの方が大切なんですよね、文化として。
芦田愛菜ちゃんの方が大切なんですよね、文化として。
みたいな感じで。
どこのマスメディアも、落語を、文化コンテンツとして尊重していなかったのですが。
「べつに、世の中に存在していても消失していても、どっちでも興味が無い」と言わんばかりに。
『落語』と云う文化を、完全に、無視。
一分一秒たりとも、『落語』と云う大衆文化のために、時間を裂かなかった。


で。
立川談志師匠が死んだ途端に。
「落語界にとって、必要不可欠な重鎮が、また一人、この世を去りまして……」みたいな。


いや、だからさ。
必要とか無用とかすら考える価値も無いコンテンツだから、今まで無視してたんだろ?
一分一秒たりとも、『落語』をコンテンツとして提供しなかったんだろ?
それが、死んだ途端に、ヨイショって。
ひど過ぎるだろ。


なんつーか。
往々、噺家の死ってのは、文学者の死とは異なり、浮かぶ瀬の立つハズなのですが。
初代、立川談志師匠の死、……ってのは。
浮かばれないなぁ、……と、思いました。


でも、当人は、せいせいしてるのかな、とか。
「もっと、やれる事があったかなぁ……」なんて、生命への執着も踏まえつつ。
「まぁ、死んじまったもんはしょうがねぇ」とか。
棺桶の中で、寝返りでも打ちながら、考えてるのかなぁ、……と。