あびぃろーど…
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音楽は「音を楽しむ」と書くのよ。
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おんがくは
「おとをたのしむ」
とかくのよ
一説によると、「音楽」は秋の季語だとする考え方もあるそうなのですが。
つーか。
立冬を越えたから、もう、冬だけどな。
11月11日、ポッキーの日。
何か、色々な記念日が、あったり無かったり。
(箸の日、靴下の日、電池の日、螺子回し(ドライバー)の日、など)
そして、何気に意外と知られていない、中野梓の誕生日。
<けいおん!>
基本。
結論を劇場版に回すアニメは、反吐が出るほどキライなのですが。
決められた納期で結論まで書き納められないのであれば。
表現芸術で商売なんか、するなっつーの。
……、と。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、痛烈に、不快を感じたワケですが。(笑)
頭の中と紙面で、最後の最後の結論まで、プロットを確定させてから。
最終結論を踏まえた上で、全体像を意識しながら第一話から物語を構築して下さい。
コレは、未完のライトノベルの焦燥なアニメ化ブームにも言えるコトであり。
カネのためにアニメを量産する弊害の、典型的な具現なのですが。
表現活動に於いて「未完の状態での発表」が許されるのは。
創作者が、不慮の事態で、創作続行不可の事態に陥った場合だけ、だと思う次第。
なのですが、例外的に。
上記を踏まえた上で、劇場版の存在を否定しない場合、……と云うのも、あります。
『そらのおとしもの』とか。
『カードキャプターさくら』とか。
『スレイヤーズ!』とか。
アニメの中で一定結論を確定し、アンソロジーとして物語を拡張する場合。
原則。
アニメで始めた物語の結論が、アニメとして完結しているコトが前提条件です。
アニメの結論と、原作の結論が、まったくチグハグでも気にしません。
(第一期で物語の続きを引き、第二期で結論をまとめた事例も含める)
(第一期は第一期で、第二期は第二期で、個々の結論をまとめた場合も含める)
……、で。
ご存知の通り、ボクは、アニメの『けいおん』に関しては、否定派です。
原作原理主義、または、原作推進派、……と、云うワケでも無く。
『けいおん』そのものに、然して、興味や関心がありません。
…………、が。
なぜか、分からないのですが。
劇場版の『けいおん』が、妙に、気になっている自分がいまス。
今さら。
音楽そのものに無関心だった、HTTのメンバーが。
軽音楽の聖地アビィ・ロードを歩き、何を感じるのかしら、……とか。
音楽性の違いから不和を起こしたメンバーが、どう、和解するのかしら、……とか。
たくあん眉毛の熱愛の顛末、と、結果、……とか。(笑)
劇場版のCMが、ものすごい、上手に構成されていて。
むしろ。
劇場版本編よりも短時間のCMがスゲェ、と、感服しているのが真意なのですが。
『涼宮ハルヒの消失』に関しては。
CMで白雪の幻惑に沈む長門の映像を見ても「ふーん」とすら思わなかったのですが。
なんだって、また。
どちらかと云うと否定的だった『けいおん』の映画のCMには、食指が動いたのか。
幼稚な我慢と意地の反動?
『けいおん』キライとか言ってた癖に、ホントは好きだったのか?俺?(笑)
……などと考え、またぞろ、テレビ版を見てみたのですが。
やっぱり、全体的には、わざとらしい「萌え」と「笑い」の押し売りが不服だし。
やっぱり、文化祭や卒業式のシーンなどの山場では、うるっと涙腺に来たし。
結局、昔のままの読後感だったりもするワケで。
八九寺真宵、や、音無芽留、に、関しては。
ものすごいコアな角度から、異様に熱弁を奮うクセに。
黒ツインテールが好きで、リンコにも黒ツインテを強要したクセに。
それなのに、過去の日記では。
あずにゃんに対しては、具体的な言及が、ほとんど一言も無かったり。
いったい。
ボクは『けいおん』の劇場版に、何を期待しているのかしら、……と。